僕が関西のディベーターを応援する理由(歴史編2)

歴史編1では、関西でパーラが広がり始めた様子を、僕主観でまとめました。
歴史編2では、関西勢の躍進と、JPDU関西ができるまでについてまとめていきたいと思います。

僕と府大のH川君は同じ学年だれれど、僕は2回生後半で早々とディベーター引退していたのもあり、
大会では当たるというより、運営側で活躍を見ている側だったのですが、
残念ながら、H川君の代ではメジャー大会でのブレイクはなかったように思います。
躍進はその1学年下のN川ちーちゃんと(現UT)と、K内君コンビが出てくるのを待たなければならなかった。

上記のコンビの印象ですが、関西在住に関わらず、非常に積極的に関東や国際大会に参加していたなぁ、ということです。
例えば、数多く大会に参加することで、大会に対する慣れを養ったのでしょう。
例えば、ICU DSの合宿に参加して、比較的レベルの高いラウンドを数多くこなすことで、
関東ディベーターとのラウンド経験を積んでいたのでしょう。
また、例えば右も左もわからなくても、とりあえず国際大会に参加することで、
本場の雰囲気を実践的に感じ取り、学んでいたのでしょう。

ともあれ、ずっと同じコンビで、数多くの経験をする中で、
2003年中にメジャーな大会でのブレイクするのが恒常的になり、
2004年のESUJではベスト3にまで残ったのがすごく印象に残っています。
しかしながら、残念だったのは、当時は府大のこのコンビだけが躍進し、
他の大学やチームはそこまで躍進していたかというと、そうでもなかったのも事実です。

そうした中、組織として関西でもパーラコミュニティーを起こそうと、
2005年のJPDU関西の発足に繋がっていきます。

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